開祖貞安(ていあん)上人は天文8年(1539年)に相模国三浦郡黒沼郷に生まれ、6歳で小田原の大蓮寺(浄土宗)の堯誉(叔父)に師事を受けます。
1549年に出家受戒し、その後堯誉に従って下総国の弘経寺に移り、若くして聰敏で浄土宗の奥儀を極めます。
貞安上人の評判は正親町(おおぎまち)天皇の知るところとなり、1572年に「聖誉上人」の号を与え、香衣を着て参内するよう命じられました。正親町天皇との関係は、この時から始まります。

そして、天正10年(1582年)の本能寺の変の後、正親町天皇は貞安上人が織田信長の尊崇を受けていたことを知り、追悼供養を行うことを命じられています。その後、宮中に招いて「選擇集(せんじゃくしゅう)」の講義をさせ、褒賞として「九条の袈裟」を賜りました。この袈裟は寺宝としていまに伝えられています。さらに、二条新御所を貞安に特別に寄進し、織田信長・信忠父子の追善供養を目的とした寺院「大雲院」を開設させたのです。

正親町天皇綸旨

正親町天皇綸旨

九条の袈裟

九条の袈裟

その後も、宮中との結びつきは強く、正親町天皇の譲位を受けて践祚した後陽成(ごようぜい)天皇は、天正十八年(1590年)に大雲院を勅願所となし、翌年寺号「大雲院」の宸筆(しんぴつ)の勅額(ちょくがく)を下賜されています。

後陽成天皇宸筆 勅額

後陽成天皇宸筆 勅額

貞安上人墓碑

貞安上人墓碑

貞安上人坐像

貞安上人坐像

また、織田信長と貞安上人との関係は、安土宗論から始まります。
貞安上人は、安土宗論での活躍により織田信長から特別の評価を得ていたと言われます。『信長公記』(太田牛一著)によれば、天正七年五月に、安土城下の浄厳院で、浄土宗と法華宗の「安土宗論」が行われたとき、信長は貞安の活躍に注目し、その功績をたたえて銀子五十枚と軍配団扇(寺宝)を贈ったという記述が有ります。信長は貞安を呼んで、「今日の宗論は近来の手柄である。前々方々で法論の沙汰は聞いたが、今のような手柄な事は知らず。天下日本国にかくれあるまい。」と極めて賞讃したと言われています。

軍配団扇(寺宝)

軍配団扇(寺宝)